スピリチュアル嫌いの変化
私はスピリチュアルが嫌いというか、苦手だった。
宗教も苦手なのだが、仏教・キリスト教・イスラム教、何れにしても多数の信者が存在する。それは一定の安心だと感じていた(これは赤信号みんなで渡れば怖くないの発想だが)。一方のスピリチュアルはローカル性が強いと考えていて、より慎重にみないと危ういと感じていた。
危ういとはなにか?それは戻れなくなってしまうこと。
プログラムを作ったことがあれば、人間も一種の高度なプログラムと考えてしまう。今の自分があるプログラムで動いていると仮定して、「危うい」というのはそのプログラムをアップデートして、「なんか妙だな?」と感じる機能が消されてしまうこと。狂信的な信者というのはそういう状態だと思っている。疑う機能を無効にしたプログラムをインストールされてしまった状態。
自分が実行しているプログラムをチェックするプログラムが動けるようにしておかなければならない。「信じる」ことは、この仕組みを破壊しない範囲で、十分にチェックされたものだけをインストールすること。安易に信じることはウィルスかもしれない実行ファイルを安易に実行することに近い。
スピリチュアリティに溢れる人に接して、その教えを受けて今自分がどうなったか。
スピリチュアルに対する単純な拒絶というものはなくなった。
それを安全と思うレベルで受け止めることができるようになった。
どういうことか。
スピリチュアルを「虚数」や「量子力学」と同じ様なものだと考える様にした。
なにか本能的には受け入れられない気持ち悪さがあったとしても、それは現実に役に立つ。無くてはならないほど役に立つ。そういう位置づけ。
だから、全面的にスピリチュアルに染まっていて、疑いもしないような話し方には相変わらず気持ち悪さを感じるが、「そう考えると楽に生きられるよ」という取り入れ方はありだなと思う。2乗して-1になる虚数「i」はそれを習うまでの考え方からすると気持ちが悪いのだが、それがあるものとして考えるといろいろなことに説明ができる。だから「理解が追いつかないだけで存在するのかもしれない」とある程度受け入れる。そんな感じ。